- 竹下会長は島根県の聖火リレー中止発言にお怒りのようです
- 竹下さんを駆り立てた怒りの原動力はなんなのか?
- 恐怖と忖度のファシズムと総裁選の雪崩式菅さんフィーバー
- 竹下さんは怒ってるんじゃなくてビビってるんだ
- 言いたい事も言えないこんな世の(略)
- 例えばオリパラをやめて一回かぎりの歓喜の祭典をしたっていい
- 多様性やサステナビリティは目標じゃなくて解決手段
竹下会長は島根県の聖火リレー中止発言にお怒りのようです
国会議員の竹下亘さんが島根県の丸山知事を呼んで注意すると発言して話題になっています。
ちなみに丸山知事は2月17日に聖火リレーの中止を検討すると表明しました。
これについては昨日のエントリーで書きました。
この時には全国的には小さなニュースと紹介したのですが、
小池さん、加藤さん、竹下さんが上手に燃料を足したこともあり、今ではちょっとしたニュースになりました。
竹下さんを駆り立てた怒りの原動力はなんなのか?
この一連のニュースのなかでも、竹下さんの「呼んで注意する」発言は衝撃的でした。
民主主義や憲法について詳しくはないけれど、「地方自治」が民主主義を支える大切なものだということはわかります。
政府の方針が全てに優先される中央集権的な国のあり方を遠ざけて、民を中心とした政治を守るために、まず人々が暮らしている地方の自治を尊重するという考えはとてもわかりやすい。
だから竹下さんが今回、地方自治とか知らんって感じのあの発言をしたことには本当にびっくりしました。・・・めちゃくちゃです。
もともと地方自治に関心がなかったにしても、こんなにきわどい発言に駆り立てたほどの怒りはどこからくるのか。とても不思議です。
恐怖と忖度のファシズムと総裁選の雪崩式菅さんフィーバー
もうちょっと懐かしい気がするけど安倍政権時代に忖度という言葉が、とつぜん日本中で溢れかえった時期がありました。いうまでもなくリーダーの意にそぐわないものは徹底的に冷や飯を食わされ、追い詰められる様を見せることで、王国を築いた時代を象徴する言葉です。
その後継を決める自民党総裁選はどうなるかと思ったけど、まったく盛り上がらず早々に菅さんの一人勝ちで終わっちゃいました。
あの総裁選はおそらく「自分の一票を推しのために使いたい」というものではなく、「勝ちそうな人を予想して自分も勝つ陣営に乗っからねば」という、終わった時にいじめられる側に居たくないという思いがほぼすべてを支配するちょっと異様な選挙だったのです。
その結果、あっ「菅さん勝ちそう?」ってなった瞬間に雪崩がおこったのです。勝ちそうと決まれば他の人より少しでも早くそっち側に居たアピールをしたいもんね。
そして、菅さんは自分が好かれているからではなく、場を支配する恐怖の作用によって選ばれたと知っているから、足元が危うい時に恐怖をみせつける以外の選択肢をなくしっちゃってるのでしょう。*2
恐怖と忖度のファシズムは継承されてしまったのです。
竹下さんは怒ってるんじゃなくてビビってるんだ
ここにきて、最初に竹下さんが怒っていると思ったのは勘違いだったと気づきます。怒りではなく、いじめられる側になることへの恐怖に衝き動かされての言動だったのです、きっと。
「島根県が嫌われたら、どれだけいじめられるか。謝れ!! お前らが詫びれ!!!」
もしくは、ひたすら我が身を案じて
「オレ島根だけどだんぜんコッチ側だから!あいつと全然関係ないし!なんなら注意してくるし!」
ってことなのでしょう。
うーん、怒りの方がまだ良かったな。
言いたい事も言えないこんな世の(略)
いろんな圧力や異なる意見を排斥する空気は、官邸だけの話じゃなくいまやそこら中に漂っています。自由に意見が言える社会は少しずつ危機にさらされています。
まずはオリンピック・パラリンピックの開催について、どちらの意見も自由に話せる空気をつくらないとね。そもそもオリンピックを中止する事も開催するのと同じくらい大きな仕事だから、「もし中止になったらその時に考えます」というのは考えなさすぎです。
そして自由な議論ができるなら思ってもみない解決策だって出るかもしれません。
例えばオリパラをやめて一回かぎりの歓喜の祭典をしたっていい
いっそオリンピックもパラリンピックもすぐに止めるって発表して、今回のオリンピックに参加するはずだった世界中の人々に「コロナを克服したときにきっと日本が歓喜の祭典を用意するからみんなでがんばろうね!」って予告すればいい。
今回参加するはずだった世界中のアスリートを招待することができたら、メモリアルな舞台でためていた力を思い切り発揮することで喜びに変えられる想いもきっとあるはず。
オリパラのために用意したリソース全てを使って、新型コロナウイルスの脅威を克服した時に世界中のコロナの犠牲者を悼み、長いコロナの夜が明けた1回限りの歓喜の祭典を日本がやる。オリンピックの後にパラリンピックとかじゃなくて同時にみんな一緒に一つの祭典をやるんです。この喜びと祈りはきっと国や人種や宗教やハンディキャップも超えた本当の平和の祭典になるよ。もうそんなお金がないなら世界を相手にクラウドファウンディングしてもいい。日本製の祭典にこだわらず世界中のみんなで作ればいいんだから。
ほら、無理にオリ・パラ開催に邁進したり、ただ中止したりするよりずっとワクワクしてきたでしょ。これなら東京五輪・パラリンピック組織委の会長だってめちゃ楽しいはずです。そうなったら組織委にはもっといろんな国からいろんな人に加わってもらわなきゃね。
多様性やサステナビリティは目標じゃなくて解決手段
ぼくが偉い立場で自由に意見を言えるとしたら・・て考えてたら楽しすぎました。
前回のエントリーのあとでは、次はからし豆腐や誕生日に食べて大好きリストに加わったアッシ・パルマンティエなんかについて書こうかなと思ってたんだけど、ニュースに驚いてぼんやり考えていたら妄想がどこまでいくのかなとちょっと心配になりました。
地方の自治に委ねられる範囲はどこまでかという難しいお題もあるなと思いますが*3、それ以前に多様な議論を認めない政府の姿勢には危機感を感じます。
そもそも「恐怖と忖度の王国」は多様性とは決定的に相入れないし、「〇〇ファースト」なんて言葉もSDGsと真逆のものです。新型コロナ禍で余裕がない中でSDGsは言葉だけが先行して実際には世界の至る所で逆行しているようにも感じます。
ぼくはこれまでサステナビリティやSDGsは社会に余裕がある時に進められるものと少し思っちゃっていました。
けれど新型コロナの拡大には集団や個人の自分ファーストの精神が大きく後押しとなっていること、世界で富める国ばかりがワクチンを独占していること、個人の権利に国が大きく制限をかけることが常態化していること、取りこぼされた人々や社会をこれから再構築にしていくことなど、サステナビリティについて意識する事が多くなりました。
少しづつSDGs、サステナビリティはただの綺麗事ではない。新たな目標ではなく新たな解決手段なんだなと感じるようになってきたけれど、これについてはまた。